私がまだ幼かったころ、祖父と祖母が当たり前のように存在していました。
朝起きれば、祖父がいて、祖母がいました。
平凡な日常風景です。
しかし、いるのが当たり前と思っていた祖父と祖母は、今はもうこの世にはいません。
祖父は、私が高校1年生のとき、亡くなりました。
しばらくして、祖母も亡くなりました。
小学生や中学生のころは、死について真剣に考えたことがありませんでした。
テレビや雑誌などから、人は最後には死ぬことを頭では知っていたものの、実感がなく過ごしていました。
身内の死を目の前にすると、一変します。
どうしても、死の現実を受け止めなければなりません。
祖父の葬式では、冷たくなった祖父に手で触れました。
氷のように冷たくなった祖父の手を、今でもはっきり記憶しています。
「自分もいつかこうなる日がくる」と思い、胸が痛くなりました。
人が死ぬと冷たくなるのは、知っていました。
実際に触れると、強烈な印象が残ります。
本当に氷のように冷たいのです。
今では、以前にあった「当たり前の日常」に決して戻ることはできません。
その当たり前が二度と来ないことがわかると「当たり前の中の幸せ」に、後になって気づくのです。
祖父と祖母に感謝を持つようになったのは、2人が亡くなった後でした。
当たり前と思っていたころは、さほど感謝はありませんでした。
祖父と祖母の存在の大きさを実感したのは、亡くなった後でした。
若いうちにしておかなければならないことの1つに、祖父と祖母と十分に触れ合っておく日常です。
意識するまでもなく当たり前に存在していることですから、今はその大切さに気づくことはないし気づけないことでしょう。
しかし、いずれ祖父と祖母がこの世からいなくなる日がやってきます。
人間は、幸せなときには深くは考えませんが、意外なことに不幸なときのほうがいろいろなことを考えます。
それが人生について考えるきっかけにもなります。
日常の当たり前の大切さに気づけば、1つ成長した証拠です。
気づいたとき、人は成長をします。
失えば失うほど、今一瞬を、一生懸命に生きようとする気持ちが強くなるのです。