私がまだ小学生だったころ、親は特に厳しかったことを覚えています。
今も厳しいのですが、特に小学生のころの勉強やしつけは重要だと考えていたのでしょう。
あのころの親は、鬼のように思えました。
親に怒鳴られ、叩かれ、よく泣きじゃくっていました。
食事のときには食べ方を注意され、親戚のところに行ったときには「挨拶をしろ」と叱られていました。
褒められた出来事はあまり思い出せませんが、叱られた出来事はたくさん思い出せます。
毎日が叱られてばかりの日々で、当時は「これほどつらい現実はない」と思っていました。
私が幼いころから、哲学に興味を持ち始めたのも、つらい過去がきっかけになっています。
あらためて考えると、早い時期につらい経験をさせてもらえたおかげで、今の私があると言っていいでしょう。
時が経ち、20歳を過ぎた今、あのころの経験に感謝したいと、思うようになってきました。
むしろ、感謝しかない事実に気づいたのです。
たしかに当時はつらくて大変だったことは間違いありません。
しかし、しつけに対して親が厳しかったのは、子のためを思ってのことだということに気づいたのです。
愛の塊だったわけです。
たくさんの厳しさやしつけに触れてきたからこそ、今の私が存在します。
つらく厳しかった過去も、実は感謝以外の何物でもない事実に気づきます。
私が子どものころ「大変」「つらい」「厳しい」と感じていた原因は、表面的なことしか見ていなかったからでした。
本当は愛されていたにもかかわらず、まだ幼かった私はそれに気づくことができなかったのです。
親が私のことを思って「こら!」と叱っていたことも、私はただ「つらい」としか考えることができていなかったのです。
今では、思い出したくもないあのころの思い出も「あってよかった」と感謝できるようになっています。
もし、あのころがなければ「今の私」はないからです。
今の私が存在できている事実は、間違いなくそうした過去があるからです。
それに気づくことができれば、自分のためだった過去であり、感謝しかなく、前向きとしか考えようがなくなるのです。
「そのときのつらい経験は、あってよかったと思いますか」と聞かれれば「あってよかった」と答えます。
厳しかったことは間違いありませんが、それでも自分の身につく何かがそのころにはあったからです。
そう考えるとつらい現実であるほど、実は自分のためになっているという事実に気づきます。
地獄の渦中ではたしかにつらい感覚しかありませんが、表面的なことしか見ていないからです。
私が本当にプラス思考になっていったことは、こうした感謝に気づいてきたことがポイントです。
そうとしか思えない事実しかないからです。
思い込むことはプラス思考ではなく、そうとしか思えないと気づいたときに、本当のプラス思考になることができるのです。