本来、人間の言葉は、コミュニケーションを目的に人間が作り出した人工的な「道具」です。
その昔、まだ「言葉」というものが存在しなかったころ、コミュニケーションは身ぶり手ぶりでした。
原人から新人類へと進化する過程で「アーアー」「ウーウー」という音を発声できるようになり、次第に喉が発達します。
すると今まで出せなかった音が出せるようになり、出せる音の数も増えていきました。
「アーアー」「ウーウー」では2種類の音ですが「あいうえおかきくけこ……」など、いろいろな音が発声できるようになりました。
その音の組み合わせが、今の言葉の原点になっているのです。
「あめ」という音を組み合わせれば「雨」を意味したり「そら」という音を組み合わせれば「空」を意味したりするようになります。
音と音で組み合わさった単語が、さらに文章となり「空から雨が降ってきた」といったより正確な表現ができるようになったのです。
このおかげで人とのコミュニケーションが、より早くより正確に行われるようになったのです。
初めから言葉が存在していたわけではなく、人間がコミュニケーションのために「人工的」に作り出したものなのです。
なんと素晴らしい道具なのでしょう。
私たちは、数千年にわたって人類が築きあげてきた知性の塊である「言葉」を習得し、自由自在に操っているのです。
言葉が存在することは、作った誰かがいるということです。
それはご先祖様であり、さらにまたご先祖様であり、そのまたといった人たち(人類)が作り上げた「知性の結晶」です。
私は、執筆という仕事柄、よく漢字や表現について調べたりします。
そうすると、たとえ漢字1つでも、意味もなく漢字ができたのではなく、しっかり一つ一つに歴史や由来があることがわかります。
「豚に真珠」や「サルも木から落ちる」ということわざ、格言、表現でも、その由来や歴史がしっかりあります。
ある日ぱっと「言葉」というものが生まれたのではなく、数多くの歴史が背景にあるわけです。
漢字の歴史や表現が生まれた由来など調べてわかると「よくできているな」と感心します。
普段何気なく口にしている言葉一つ一つに、それぞれ大きな歴史と生まれた由来があるのです。
そんな言葉たちを今このように無償で自由に使えることを「とても贅沢だな」と、つくづく心からそう思います。
私は言葉を使って自分の考えを表現していますが、これを仕事だと思ったことはなく、常に贅沢な「遊び」と感じているのです。