理解とは何か。
理解とは、きちんと物事の意味がわかることをいいます。
相手の話を聞いて、納得したとき、私たちはこう思います。
「理解した」と。
一見すると、普通のことで何も変わったことはないように思えますが、ここに意外な盲点があります。
実は、相手の話を聞いて内容を理解したと思ったら、残念ながら誤解です。
世の中に完全な理解はないからです。
どういうことでしょうか。
たとえば、悩んでいる人がいて、相談事を聞く機会があるとします。
じっくり相手の話を聞いた結果、あなたは「理解した」と思いますが、誤解です。
肉体も五感も思考も、基本構造は同じでも、厳密には多くが異なっているからです。
同じ風景を見ても、自分が見ている青は、相手が見ている青とは違うかもしれない。
同じ仕事をしても、自分が考えている難しさは、相手が考えている難しさとは違うかもしれない。
同じ料理を食べても、自分が感じているおいしさは、相手が感じているおいしさとは違うかもしれない。
それは、自分だけでなく、相手も同じこと。
人によって遺伝子が違えば、体の基本構造は同じでも、完全に同じ体つきはありません。
人によって生まれや育ちが違えば、脳の基本構造は同じでも、脳神経ネットワークのつながり方が違います。
五感・概念・思考は、人によって異なります。
限りなく100パーセントに近い理解は存在しても、完全な理解は存在しません。
「理解した」と思ったら、どこかで誤解が生まれています。
つまり、理解は誤解の一種なのです。
認知のゆがみが悪いのではありません。
本来、認知のゆがみは、あるのが普通です。
世の中に完全な理解はありません。
「完全な理解はできないが、できるだけ理解する」と考えるのがいいでしょう。
特にコミュニケーションは、誤解が生まれやすい場面です。
生まれも育ちも立場も異なる人が、言葉によるコミュニケーションで理解するのは、なかなか高い難易度です。
「コミュニケーションは誤解とすれ違いの連続」と言っても過言ではありません。
どう頑張っても、相手を100パーセント理解するのは不可能です。
「自分を100パーセント理解されたい」と思ったら、いらいらの連続になって鬱状態になるでしょう。
自分が理解されなくても、悲しまないこと。
相手を理解できなくても、落ち込まないこと。
「だいたい理解されたらいい」と考えるほうが、楽に生きられます。
理解不足に対して寛容になると、少しくらいコミュニケーションがすれ違っても、寛容でいられます。
そして気持ちも前向きでいられます。
願わくは、コミュニケーションで生まれる誤解を楽しめるようになりたい。
もともと完全な理解は不可能なのですから、発想を変えて、いっそのこと誤解を楽しみましょう。
「おやおや。そんなふうに誤解されたのですね」
「変に誤解されてしまったな。そういうこともあるよね」
「素晴らしい誤解が生まれた。まあ、面白いからいいか」
理解されなくても、くよくよしないこと。
誤解されても、明るい気持ちになれます。
「理解は誤解の一種」と心得ることで、心の器が大きくなるのです。