文学には「行間を読む」という言葉があります。
行と行の間には、文章として書かれていなくても著者が書きたい言葉が隠れているということです。
はっきり文字として表現はされていませんが、文脈の流れから言いたいことを感じ取るということです。
行間が読めるようになると、より深く文学を楽しめるようになり、書かれていない文章を楽しめます。
主人公の隠れた心情や行動が読み取れるようになると、面白い。
たとえば、以下の文章はどうでしょうか。
この3行には、言葉が隠れています。
その言葉を読み取ることが「行間を読む」ということです。
なぜ彼は彼女に近づくことができなかったのか。
あなたにはわかりますか。
一度振られたからなのか、喧嘩したからなのか、尊敬しているからなのか、それとも好きだから近づけないのか。
キーポイントは(3)です。
「恥ずかしくて、いつの間にか顔は赤くなってしまっていた」という文章から、もうおわかりですね。
「恥ずかしい」「顔が赤くなっている」ということから、彼は彼女のことが好きなんだなということがわかります。
たったこの3行には「好き」という言葉は一切登場しません。
しかし「彼は彼女のことが好きである」ということがわかるのです。
これが、行間を読むということです。
文章だけの話ではありません。
会話の中でも同じです。
往々にして、人間とは自分のコンプレックスは口には出して言いません。
口には出して言いませんが、会話の文脈からそれが読み取れることがあります。
「どうよ。俺のフェラーリ。かっこいいだろ」
私は言葉を扱う仕事をしている職業柄、人の言葉から相手のことをかなり読めます。
フェラーリを自慢するということは、つまりすごいことを知ってもらいたいということ、認めてもらいたいということ。
すごいことを誇示するということは、彼はすごくないということです。
つまり、彼には自分に自信がない、コンプレックスがあるということが感じ取れます。
自信がないから開いた心の穴をふさごうと、自慢をしようと逆の行動に出ます。
彼に一度も会ったこともなければ、どんな人かも知りません。
しかし、人の内側は、必ず外側に出てきます。
自慢をする彼には、言葉の裏に「私はコンプレックスがあるんです」という心の声が聞こえてきます。
これが「相手の心を見る」ということです。
文学における、行間を読むことと同じ話です。
言葉として表現はされていませんが、前後の文脈や言葉の裏返しから、相手の心の内が見えてきます。
相手のことが見えてくるようになると、自然と人間関係がうまくなります。
相手の心が見えるのですから、うまくならないわけがありません。
行ってほしいことや言われたくないことがわかると、トラブルを未然に防げ、人間関係が自然と向上するのです。