私は贈り物をするとき「残るもの」より「残らないもの」を贈るようにしています。
洋服よりお菓子を贈り、靴より図書券を贈り、時計より商品券を贈ります。
なぜ残らないものを贈るかというと、残るものは相手の負担になってしまうからです。
物質的にも精神的にも、両方に負荷がかかります。
たとえば、服を贈るとします。
贈る相手は女の子。
あなたは相手が喜ぶであろう洋服を選んで、贈ったとします。
「きっと相手の好みに合うに違いない」と思って選んだ服は、必ずしも相手が喜ぶとは限りません。
人それぞれに好みがあり、また年齢やそのときの気分によっても、ころころ変わるものです。
服を贈って受け取った相手は「ありがとう。嬉しい!」と笑顔で喜ぶことでしょう。
しかし、本当に相手が喜んでいるかどうかは定かではありません。
心の中では「嬉しいけど、ちょっとこれは私の好みじゃないなあ」と思っているかもしれません。
いえ、そう思っていることのほうが多いものです。
自分の好きな服は、自分でさえ選ぶことが難しい。
あなたは自分の好みに合う服をデパートで、何時間もかけて探し選ぶことでしょう。
自分でさえ選ぶことが難しいのに、ましてや他人が選ぶことはさらに難しくなります。
相手の好みに合うことは、奇跡的です。
好みだけの話ではありません。
受け取れば、受け取ったで、今度は着なければなりません。
「なければならない」という「must」です。
洋服の贈り物には「服を贈ったのだから、しっかり着てね」という念が込められています。
贈ってくれたのに一度も着ないのは、悪い気がします。
一度は着なければ失礼だと思い、好みではない服を、進まない気を抑えて着ます。
これが、なかなかストレスなのです。
自分が好きでもない服を着なければならないのは、自分の身になればわかりますが、結構つらい。
仮装しているような気分になります。
かぶっているような感じです。
変装しているような違和感です。
洋服だけでなく、時計にしろ、ズボンにしろ、ネクタイにしろ、残るものは生活のどこかで使わなければなりません。
着たり、置いたり、飾ったり、活用はさまざまです。
残るものが相手の好みに合うことはまれです。
好みでないものを生活の中で使わなければならないという行為は、ストレス以外の何物でもありません。
こうした理由から、私はもっぱら「残らないもの」を選んでいます。
お菓子、図書券、商品券、気持ちなどです。
お菓子なら食べればなくなりますし、図書券や商品券も、使えばなくなります。
最初に言いましたが、贈り物で大切なことは「物」より「気持ち」です。
お菓子を贈るにしろ、図書券商品券にしろ、必ず手紙は添えるようにしています。
気持ちがこもっていれば、十分に嬉しく、また相手も負担になりません。
手紙は受け取っても負担にならず、精神的な贈り物です。
残らない贈り物のほうが、心に残るのです。