相手のことを尊重できているというのは、相手のことを大切にしている証拠です。
お互いがお互いのことを思い合っているというのは、理想的な状態なのです。
であるにもかかわらず、ときどき「相手のすべてをコントロールしたがる人」がいます。
「自分以外の人とは話してはいけない、あなたのことは私が決める」というような人です。
これは、相手が好きでたまらないがゆえに、誰にも取られたくないから、そうなってしまったわけです。
恥ずかしい話ですが、これは10代のころの私であります。
相手が好きであるゆえに「相手のすべてを自分のものにしたい」という、恥ずかしい経験があります。
決して相手が嫌いでそうなったわけではありません。
逆に、好きだからこそ全部自分がコントロールしたいと思っていたのです。
10代のある日のことです。
付き合っている人が、会社の付き合い上ほかの人と飲みにいくことになった話が出たとき、つい私は反対してしまいました。
本当なら、相手の人生なのだから私が決めることではないのに、未熟な私は「ダメ」と言ってしまいました。
しかし、後になって考えると、あのときは悪いことをしたなと反省します。
相手を縛り付けたところで、そこに本当の幸せがあるかというと、そうではなかったことに気づいたのです。
私は、自分のことしか考えていない最低の男でした。
それからというもの、好きな人を縛り付けるようなことはやめました。
野放しと同じ状態です。
飼い犬を野放しにしても、本当に飼い主との時間が心地いいとき、必ず犬は飼い主のもとへ帰ってきます。
いくら自由になったからとはいえ、やはり自分のところが居心地いいと感じるなら、しっかり帰ってきます。
もし、そのまま帰ってこなければ、私より居心地のいい所があるということです。
そんなときには「私の愛が足りなかった」と反省します。
いったん縄を解いた後で、自分にとって大切な存在に気づいてもらうほうが、自由な恋愛ができます。
寂しいから付き合うという恋愛にも、相手に自由にしてもらうほうが、冷静になって相手を見ることができるようになります。
「好きだから付き合うのか。それとも寂しさを紛らすために好きになっているのか」
一言で「理想的な人と巡り合う」と言っても、最後には冷静な判断が必要なのです。
一時的な性欲に振り回されることではありません。
自分の寂しさに振り回されることでもなく、相手の顔色をうかがいながらの恋愛でもありません。
相手のことを自分はどう思っているのかという時間を与えるためにも、私はいつも「相手を自由」にすることにしているのです。
決して自分の考えが絶対だと思うのではなく、相手の好きなことややりたいことには、遠慮なく「いいよ」と言うようになりました。
相手のすべてをコントロールしては、ただ相手がかわいそうなのです。